陰田町|奥陰田『犬田神社』の幸神
米子市のサイノカミ

鳥取県西部の民俗と石造物

米子市陰田町には3ヶ所にサイノカミさんがあります。
そのうちのひとつが奥陰田にある犬田神社の幸神。
実はここの依り代については諸説ありますので私の考察も含めて情報を整理てみたいと思います。

米子市 奥陰田 犬田神社
2021-09-25
目印
犬田神社
対象

椿もしくは楓

参考

塞神考 No.392
石に刻まれた祈り2 No.11
鳥取県神社誌(S10)
鳥取県神社庁HP

依り代について

参考にさせていただいた資料により楓、椿と意見が分かれています。
いずれも藁馬行事があったとの聞き取り結果をもとにしていますので平行線。
そもそも寛政八年の神社改帳に奥陰田村 幸神 無社 山王社地に座すとあり元々はサイノキではない依り代があったのではないか?
という疑いが湧き上がってくるわけです。

少々手詰まりの感がありますので昭和10年版 鳥取県神社誌および鳥取県神社庁HPから犬田神社の由緒について引用します。

犬田神社
鳥取県神社誌、米子市陰田町犬田神社 米子市大字陰田字宮ノ谷鎭座

祭神
大巳貴命、國常立尊、天忍穂耳尊、木花咲屋姫命、武内宿禰命、道眞、稲背脛命

由緒
創立年月不詳、往古より山王大明神と稱し崇敬せり、以前は六十四石八斗九升の社領ありしと云ふ、其の頃神事式執行神饌供物を洗ふ井筒に、御水井土、洗度井土、研井土の三所ありて今に存す、御旅所今は宮田と唱へ草原あり、其の後社領減少慶長六年極月二十六日中村泊耆守より神主居屋敷手作分として三石を附せられ、慶長十六年寅十月十八日米子城主加藤氏及び元和四年九月十九日藩主池田氏よりも中村氏と同じく取扱はれ、寛文七年六月二十六日社領一石八斗九升九合を先規により寄附せらる
明治維新神社改正の際犬田神社と改稱せらる、往古よりの攝社たりし米子市大字陰田字北井垣鎭座衣那荒神社、同市大字同字南谷鎭座高良神社、同市大字同字東天神谷鎭座北野神社、同市大字同字狸谷鎭座鷺神社を此の時合祀す。

米子市 陰田のサイノカミ 奥陰田 犬田神社の幸神
2021-09-25
例祭日
十月十九日

建造物
本殿、幣殿、拜殿、随神門

境内坪数
六百六十二坪

氏子戶数
六十五戶

鳥取県神職会 編『鳥取県神社誌』昭和10
国立国会図書館デジタルコレクション
https://dl.ndl.go.jp/pid/1050476/1/215
(参照 2023-01-05)
明治初年に地名(犬田庄奥陰田村)に因んで犬田神社と改称した。
この時、村内の摂社衣那荒神(木花咲屋姫命)、高良社(武内宿禰命)、天満天神(道真公)と鷺大明神(稲背脛命)を合祀した。
鳥取県神社庁HP

所長 稲背脛命がご祭神ですね。
そのご神徳に道祖神的側面があると目久美神社のところで触れました。
ここから推測です。
山王大明神(犬田神社)の社領内にあった鷺大明神(稲背脛命)がもともと幸神としてお祀りされていた。
これが明治時代の神社改正で合祀されることになったが、鷺大明神のご神体そのものが行事の対象であったかもしくは才の木など動かせない依り代であったため犬田神社境内にて行う行事は適当に境内の良さげな木を選んで行った。
今となってはそれが椿なのか楓なのかはわからない。
厳密には〔鷺大明神 ⇒ 稲背脛命 ⇒ 幸神 ⇒ サイノカミ〕であるのだがあくまで民間信仰なので、そのときそこに居た人々がこれと決めた行事の対象があったならそれがサイノカミでいいんじゃな

ぽんきちくん わからないなら最初からそう言えばいいのに。

ーおしまいー

表記ゆれ

サイノカミ、サイノ神、サイの神、才の神、才ノ神、塞神、塞の神、塞ノ神、幸神、幸の神、幸ノ神、妻神、妻の神、妻ノ神