牛馬供養塔
鳥取県西部ではときに異様な石仏をみかけることがあります。
田舎を歩いていて道端の草むらに以下のような石仏があったらビックリするんじゃないでしょうか。
少なくとも私はビックリしました。
三面六臂に牛馬の宝冠。
そして何よりその姿がおもしろい!
頭に馬が乗っている時点で既に馬頭観音なのでしょうが、それでもなんだかしっくり来ないものが実に多い。
発見当初はいくら考えてもわかりませんでしたので、やむを得ずそのまま塩漬けにするほかありませんでした。
しかしその後、別件調査で歩き回っていたところ…
出てくるわ出てくるわ!
近隣で見ることのできる凡そのバリエーションが出たのではないかと思いましたので、こうしてまとめてみることにしました。
結論から言ってしまうとこれら異形の石仏群は、
馬頭観音
牛頭観音
牛荒神
以上3つのうちのどれかであり、広義で牛馬供養塔とする他ないと考えるに至りました。
立地としては、単体で、もしくは六地蔵や三界萬霊塔などと一緒に集落の外れに置かれる事が多く、”何故か日南町に集中”しています。
また荒神が依り代のケースもありますので、道祖神的な役割も担ってい
なんでもかんでも道祖神にするのやめてもらえませんか?
役畜の供養はしたい。
でも死のケガレは村のソトに置きたい。
そんな感じの距離感ってことでいいじゃないですか。
ぐぬぬ…
注:1基だけサイノカミ行事の対象であった馬頭観音があります
取り敢えず一覧から見ていただく流れにしようと思います。
一口に牛馬供養塔と言っても驚くほどその見た目や特徴は多彩です。
基本的には墓石であるという点をわきまえつつ、しかし当時の石工さん達が技を尽くして彫り上げた工芸品であるというのもまた事実です。
ですので、まずは見て楽しんでいただくのが第一目標。
最終的には今のサンプル数ではなんとも言えませんが、その分布やバリエーションの偏りなどから「なぜ日南町に突出して多く見られるのか」が分かれば最高だと思っています。
それではどうぞ。
もくじ
1.ギャラリー
メインコンテンツです。
場所ごとではなく分類別でご紹介します。
気になる石仏があったらクリック、タップで詳細ページへ飛ぶ仕組みになっています。
ほんとうに様々なバリエーションがあり、広義で牛馬供養塔とでも括らざるを得なかった事情であるとか、パターンの分化を説明するのに後述のような考察をこねくり回す必要があったことなど、同情も兼ねてお分かりいただけたら幸いです。
わかりやすい馬頭観音・牛頭観音
異形の馬頭観音・牛頭観音
怒ってるけどわかりにくい馬頭観音・牛頭観音
柔和でわかりにくい馬頭観音・牛頭観音
牛荒神
石塔 牛頭観音
石塔 馬頭観音
その他の牛馬供養塔
2.分類の方法について
上記の石仏群を便宜的にであっても分類するために、私は以下のようなフローを念頭に置いて見立てを行いました。
┃ ┃
┃ ┣〔馬頭観音〕
┃ ┃
┃ ┣〔牛頭観音〕
┃ ┃
┃ ┣〔牛荒神〕
┃ ┃
┃ ┣〔牛頭天王〕
┃ ┃
┃ ┗〔その他〕━〔対象外〕
┃
┗(無)━〔頭に牛馬〕┳(有)━〔観音っぽさ〕┳(有)━〔ツノ〕┳(有)━〔牛頭観音〕 .
┃ ┃ ┃
┃ ┃ ┗(無)━〔馬頭観音〕
┃ ┃
┃ ┣(無)━〔牛荒神〕
┃ ┃
┃ ┗(無)━〔牛頭天王〕
┃
┗(無)━〔対象外〕
ものすごい独断と偏見による分類ですので、石造物を長くやっておられる方から見るとおかしな点があるかもしれません。
その際は𝕏(エックス)のDMや@などでコッソリ教えていただけますと助かります。
あと解釈の微妙な部分について以下補足します。
牛頭天王について
今回取り上げる石仏群は馬頭観音、牛頭観音、牛荒神、以上3つのうちどれかに該当すると冒頭で書いたような気がします。
そのわりには途中「牛頭天王」という選択肢があるのは何故だ?
というツッコミがあるのはごもっとも。
これは享保19年(1734)下石見に牛頭天王社が建立されているという記録が残っており、牛供養のご神徳(?)を期待され周辺に石造物が置かれた可能性もゼロではないと考えたからです。
現在のところ牛頭天王と断定できる石造物は見つかっていません。
観音っぽさという分岐について
蓮台や光背などが目安にならないことが最近分かって来ましたのでもう勘という他ありません。
珍しいアイコンとしては羽衣っていうのもありました。
ツノの有無について
牛頭観音と馬頭観音は牛馬の安全、供養を願う目的で造立された事から考えて同質の石仏であると考えて良いと思います。
施主の家で牛をやっておられたのか、それとも馬をやっておられたのかだけの違いであって、たとえ馬口印を結んでいようがいまいが、宝冠が牛であれば便宜的に牛頭観音であろうとしました。
対象外
地蔵や大師さん、五輪塔など日常生活の中でも頻繁に見かけるような殆どの石造物がここに落ちると思います。
3.牛馬市について
次に、関連性が高いのではないかと思われる近隣の牛馬市についてまとめてみたいと思います。
鳥取県西部では以下のような場所で開催されていました。
大山牛馬市 | (大山町) | : | 江戸中期 | ~昭和12年 |
岸本家畜市場 | (伯耆町) | : | 昭和58年 | ~? |
溝口家畜市場 | (伯耆町) | : | ? | ~明治44年~ ? |
根雨牛馬市 | (日野町) | : | 寛永2年 | ~明治15年~ ? |
濁谷牛馬市 | (日野町) | : | 明治15年 | ~明治44年 |
黒坂牛馬市 | (日野町) | : | 寛永2年 | ~明治44年 |
荒神原牛馬市 | (日野町) | : | ? | ~明治10年頃 |
下石見牛馬市 | (日南町) | : | 万延1年 | ~明治44年 |
村尾牛馬市場 | (日南町) | : | 嘉永7年 | ~昭和38年 |
生山家畜市場 | (日南町) | : | 昭和38年 | ~昭和57年 |
阿毘縁牛馬市 | (日南町) | : | 明治15年 | ~ ? |
市の開催場所と牛馬供養塔の分布に関連性が見られるのではないかと思って書き出してみましたが…全然ありませんね。
参考とさせていただいた資料は以下引用して畳んでおきます。
続日南町史 地域編
第一章 日野上地域
第二節
五 三栄自治会
地区の文化財 村尾牛馬市場跡
牛馬市場の跡地は、町道を挟んで上段は三栄公民館と公民館広場、下段は民有地となっている。
村尾牛馬市場は、嘉永7年8月、法導寺村(現丸山)から権利を買い受け、当初は寄間周辺の日野川沿いの両岸で開催されていたといわれている。
その後村尾の中心地に移動して整備された。
以後110年間、年2回(7月と10月)牛馬市が開催され、大変賑わっていた。
初めの頃は郊外からの参加が中心であったが、後には鉄道の発達に伴って、遠くは東北や九州からも牛を購入するためにやって来た。
牛の購入者(博労)のみならず、一般の見物者や子どもたちが混じり、多くの出店が並んだ。
狭い道は人であふれ、村尾集落挙げての一大イベントであり、各民家は宿泊を受け入れることが可能な部屋造りになっていた。
昭和38年5月、生山に町営家畜市場ができて村尾牛馬市場は終了した。
八 生山自治会
廃止された施設
生山家畜市場
昭和38年5月11日開場
昭和57年廃止
下石見三吉むらの歴史 下の岩
1734享保19、牛頭天王社建立
御郡役所おんこうり
1860万延1下石見市場に牛馬市の興業許可さる
1982昭和58家畜市場岸本町に設置
日野川流域の民俗(H2)
牛馬市
寛永2、根雨市9月20~22
黒坂市、10月初子日~丑日
宮内東市4月2日、9月14日
日野郡史より
社寺の縁日を利用して開かれていた
明治15年
根雨、濁谷、黒坂、三栄、下石見、阿毘縁で市が開かれていた
明治44年、家畜市場法の制定
根雨、三栄、溝口の三ヶ所に限って開かれるようになった
現在は根雨、生山等、伯備線の駅所在地を中心に市場が移され、開かれている
高宮の郷 史跡・神話のロマン(H2)
荒神原牛市場跡(荒神原)
古くからこの牛市場は、根雨、村尾(日南町三栄)と並ぶ近在三大牛市場に数えられ、昭和10年頃まで続いた。
毎年11月30日に牛を追い込み、12月123日が市で、博労や飼育者等が集まり、それはにぎやかなものであった。
地元の男衆は、牛をつなぐ柵を作り、草刈りをし、地ならしをした。
女衆は、公会堂で店を開き男女とも大忙しだった。
市場前の道には玩具、カラツ、刃物、スキ、カマ、呉服などの露店商が軒を連ね、ノボリを立てて客を呼びこんだ。
市場では、商いが成立するたびに、手打ちと歓声があがった。
1日の商談は、200~300頭を数え、繁盛を極めたという。
それだけ繁盛を見た背景には、菅福山タタラがあったからであろう。
当時、吹の原(現諏訪三差路)は宿場として、米子、松江、岡山、広島との交通の要所でもあった。
4.考察「異形の馬頭観音」
最後に、牛馬の供養と安全を願うことを目的とした石造物がなぜこれほどバラエティ豊かに分化したのかについて考察してみたいと思います。
ここからは多分に推測を含んだ内容となりますのでご留意ください。
さて、皆さんの想像なさる馬頭観音といえばこんな感じではないでしょうか。
三面六臂に忿怒相、怒髪、馬の宝冠、馬口印などが特徴です。
しかし、日南町で次から次へと見つかる関連石仏はこんな感じ。
思っとったんと違う。
まぁ観音といえば観音ですし、頭に馬を乗せてもいますので馬頭観音とでもいう他ありません。
なんだろう、この『ケーキの上に栗が乗っていればそれはモンブランである』感は。
逆にクセになってきます。
牛馬の安全と繁栄、そして供養は願いたい。
でも馬頭観音って顔怖くない?
そう感じた人たちが、いかにも供養してくれそうな慈愛に満ちた姿に寄せて行った結果、
柔和相の馬頭観音
という不思議な石仏が爆誕したのでしょう。
ここまでならまだ分る。
ところが、
「でも去年死んだうちのハナ子はウシだべなぁ、馬頭観音さまじゃちょっと…。」
こういったニーズも少なからずあった、というよりかなり多かった筈です。
そこで、
「そこらへんに馬を頭に乗せとーやさしげな仏さん(勘違い)がようけあるがな。ほげなら馬のところを牛に変えるだけでいい感じになるだないか。」
などといったアレンジが加えられ、
牛頭観音
という、全国的にまぁ無いわけではないがこれまたよくわからない石仏も爆誕。
ちなみに冒頭で上げたようなもはや仏教ですらなさそうな石造物群についてはお手上げです…
日南町の牛馬供養に関する石造物文化が成熟を極めた結果、石工さん達に何かが降りてきたのでしょう。
しらんけど。
最後にもうひとつ。
およそ観音らしからぬ外見で、かつ頭に牛が乗っているもの。
これが難しかった。
そう、はっきり牛荒神と文字の彫られた石仏(?)を見つけるまでは。
そうか牛荒神か!
地荒神的な荒神のいち側面です。
思えば牛荒神という概念は、ここら辺でもずっと昔からあったのでしょう。
牛に対してピンポイントで供養したい、というニーズをこれほど満たす信仰対象はありませんし、文字碑であれば無いわけでもないからです。
ところで私は浅学にして、荒神、なかでも地荒神の姿をかたどった依り代というものを見た事がありませんでした。
しかし文字だけの石塔ではちょっと寂しい。
そこへある人が言ったとします。
「わしゃ知っとーじぇ。荒神さん言うたら三面六臂の憤怒相だがな。」
それ三宝荒神だし。
などとツッコむ人が周りにいなかった場合、みごと世にも珍しい牛荒神(像)なるものが生み出され、その後別系統で発生していた牛頭観音とごちゃ混ぜになった結果、めでたく現在わけのわからない状況になっている。
だいたいこんなところが真相(ゴンッ)
ポイッ⌒🔨
いいかげんにしてください。