鳥取県西部の民俗と石造物
サイノカミ、道祖神
米子市/日野川以西
サイノカミ、道祖神
米子市/日野川以西
最終更新:2024-11-07
米子市久米には2ヵ所、計2基のサイノカミさんがありました。
そのうちのひとつがここ飯山登り口「剣豪柳生五郎右衛門宗章の墓」にある石の祠です。
目印
飯山登り口剣豪柳生五郎右衛門宗章の墓
対象
左端の石祠
参考
塞神考 附19
石に刻まれた祈り2 No.8
依り代などについて
飯山、9号線側からの登り口付近に剣豪柳生五郎右衛門宗章の墓などを含む石造物群があります。
そのなかで左端に位置する石の祠がサイノカミさんです。
参考とさせていただいた塞神考によると、妻神の古祠が古絵図にあったそうです。
また昭和63年の聞取り調査により、「飯山と湊山の境をサイノタワと呼んだ」という事がわかったともあります。
その他サイノカミの手がかりではありませんが、登り口に立ててある看板の由来書きがわかりやすくておもしろいので以下引用させていただきます。
柳生奮戦の地と飯山城跡
約500年前に築かれた伯耆、出雲の国境の重要なとりでで、中世には、山名、尼子、毛利など戦国の攻防戦が繰り返された。山頂には、南北約85㍍、東西約35㍍の曲輪が古い二段の石垣で築きあげられている。
湊山と山続きであったので、江戸時代には湊山本城の東のとりでとなった。
慶長8年(1603年)11月、家老横田内膳村詮が、君主中村一忠に暗殺されると、横田方が反旗をひるがえし、飯山にたてこもって激しい戦いが起こった。
これが、世にいう「米子城騒動」、「中村騒動」である。
このとき、横田方の剣豪柳生五郎右衛門(但馬守宗矩の兄)が、中村方の武将矢野助之進らとわたりあい、十文字槍をしごいて中村方を多数討取ったという武勇伝は有名である。
No.19 米子市
案内板より
案内板より
表記ゆれ
サイノカミ、サイノ神、サイの神、才の神、才ノ神、塞神、塞の神、塞ノ神、幸神、幸の神、幸ノ神、妻神、妻の神、妻ノ神